ボランティアとは偽善である

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「協力隊とかボランティアとか、そんなの偽善でしょ?」

協力隊を含め、広義的に”ボランティア”に参加したことのある人の中で、上記のような問いかけをされたことのある人はどれくらいいるのでしょうか。

またここまで直接的な表現で聞かれることは珍しいと思いますが、協力隊員の中で自分の活動と偽善について考えたことのある人はある程度いるのではないでしょうか。

今回の記事では、国際協力機構JICAの”ボランティア事業”とされる青年海外協力隊の現役隊員である筆者が、個人的な見解としてのボランティア観について記してみようと思います。

独特な考え方をしていると自分でも思っているので、読んでいて不快に思われた方はすぐにページを閉じてください。またボランティアに対する価値観は人それぞれであるため、「こんな意見もあるのか」程度に読んでいただけるとありがたいです。

(※決してボランタリズムを否定した記事ではありません。むしろ肯定しています。)

ボランティアとは 

基本的な立場として私は

『ボランティアとは偽善的な活動である』

と考えています。

どんなに意識の高い協力隊員であっても基本的には偽善者であると私は思っています。もちろん私自身も偽善者です。

そのように考えると同時に、『偽善のどこが悪い?』とも考えております。

“偽善”と聞くと悪いイメージを持ちがちかもしれませんが、私はそう思っていません。

“偽善”=普遍的な悪 であるなら、偽善者であることは批判されるべきことなのでしょう。

ですが偽善は”悪”とされる行為とは一線を画しています。

これらの論拠について以下のように説明したいと思います。

■偽善は善の一部であり、完全なる善より持続可能なものである

■偽善は何もしないこと(見て見ぬ振り)に勝るものである

行動の分類と偽善の位置付け 

ボランティアがなんなのかを考える前に、ざっくりとですが人の行動を3つのカテゴリに分けてみたいと思います。

ここでは人の行動は“善”、”善悪に関わりのない行動 or 何もしないこと”、”悪”のいずれかに属するものとして考えてみたいと思います。

善とは社会貢献性が高く、世のため、人のための行動であり、悪とは公共の福祉に反する、有害性を伴った行動であるとします。それ以外の行動は善悪に関わりのないものとします。

この中のどれに偽善が当てはまるかというと、私の分類では偽善は”善”の一種であると考えています。

 善の分類  “完全なる善”と”偽善”

例えば、今ある男女が街を歩いていたとします。

駅前を通りかかった際、2人は募金を募る団体を見かけました。

 

男性は彼女の前でいい格好をしたく思い、普段は募金など一切興味がなかったものの1000円を募金しました。

 

その1000円はどこか遠くの国の食糧支援に使われ、人の命を救うことができました。

こんな都合のいい話はなかなか存在しないかもしれませんが、この話の中で害を被ったのは誰なのでしょうか。おそらく誰もいないでしょう。強いて言うのであれば男性の財布でしょうか。

この男性の行動は賞賛されるべきものではないのかもしれません。

しかし行動の結果として、社会に対して何らかのポジティブな影響を与えたのではないのでしょうか。

つまりこの募金は、先ほどの分類では”善”であると言えます。

しかしここで善という行為をもっと詳しく見てみましよう。

善の中には”完全なる善”と、そうではない”偽善”とが存在しているとします。

完全なる善とは、自分の身を投げ出してまでも他者のために活動する、マザーテレサ程の献身を伴った行為ということにしましょう。

誰からも「偽善だ!」と非難されないレベルの献身性を持って初めて善行は”完全なる善”と呼べるものとします。

おわかり頂けると思うのですが、先ほどの募金は完全なる善ではありません。

本当に他人を助けるための行動としての善行を行うのであれば、この男性は財布ごと募金箱に入れるべきだったでしょう。

自己の利益(女性の前でいい格好を見せること)を目的としていること、自分の持てる全てを差し出さなかったこと、これらの理由にために男性の募金は偽善であったと考えられます。

以上のような判断基準から、はっきり言ってほとんどの善行は偽善であると言えるでしょう。

けれど自分の身より他人を優先することはそう何度もできませんし、マザーテレサのように自分を顧みず献身であり続けることは容易ではありません。

なぜなら誰だって自分のために財や労力を充てたいからです。

そしてそれは人間としての本能であるとも言えます。

しかし偽善であることは自身の生活の質の維持社会への善行を継続して行うことの鍵ともなっているように思います。

長い目で見れば自分のことも考えつつ持続可能な偽善を続けた方がインパクトも大きくできるかもしれません。

 自己の幸福と善行のバランス

これらが私がボランティアを偽善とし、かつそれを肯定する理由です。

自分の利益を一切排除し、また自身の持てる全てを献上しない限りその行動は偽善の範囲を超えることはできません。

なぜなら余力を残した善行は、第三者に「偽善である」と言われる余地を残してしまうからです。

自分の全てを他者・世の中に捧げ、誰が見ても完全である善でなければ、それ以外は全て偽善と言えてしまうのです。

しかし完全なる善は自己の生活の質を低下させる可能性もあります。(例えば高額の募金など)

また行い続けることが困難である場合もしばしばです。

何度も何度も身を削るような献身を続けることは不可能です。

その点では偽善は完全なる善より実現可能であり、かつ持続可能性が高いと言えるでしょう。

当たり前ですがボランティアは必ずしも完全なる献身を行うことを義務付けられてはいません。

協力隊を含め、いかなるボランティアの参加者も皆 1人の人間です。

募金に使うお金を節約して美味しいワインを飲んでいる日だってあると思います。

仮にそれを世の中が偽善と呼ぶのであれば、私は間違いなく偽善者でしょう。

しかし公共の福祉に反しない限り、個人が自己の幸福のために労力や財を使うことを否定することはできません。

ゆえに偽善を悪いものと捉えることはできないと考えられます。

 やらない善より やる偽善

 

別の男性が駅前で募金を募る団体の前を歩いてきました。

 

その男性は先程の恋人の前で1000円を募金した見栄っ張りな男性の行動の一部始終を見ていました。

 

それを見て「募金しようと思っていたけど、やっぱり偽善はよくないな。」と考え直し、そのまま募金せずに駅の構内へと歩いて行きました。

この男性の行動は、先に提示した行動の分類における3種類の中の「善悪に関わりのない行動 or 何も行動しないこと」に当てはまります。

この行為について、私が言いたいことのほとんどは以下の記事にて紹介されていました。

元KAT-TUN田中聖「やらない善より、やる偽善」被災地支援呼び掛け(デイリースポーツ) – Yahoo!ニュース

現在マラウイに滞在しているため日本のニュースからは置いていかれがちな私ですが、熊本県における地震のことはすでに外国でも有名であり、マラウイ人の先生たちですら知っておりました。

その震災後の支援・ボランティアのあり方に関して日本国内で議論が活発になっているとも聞きます。

慎重に扱わなければならない話題であるかもしれませんが、誤解を恐れずに言うと私は『偽善は見て見ぬ振りや無知、無関心に勝る』と考えております。

つまりやらない善よりやる偽善です。

結果として1人目の1000円を募金した男性と、2人目の募金は偽善だからと立ち去った男性とではどちらが社会的に貢献度の高い行動をしたでしょうか。

私は前者であると思います。

見栄や私欲の混ざった行動であったとしても「何もしない」という選択肢よりかは現状をいい方向へと変えていけるのではないでしょうか。

私は元KAT-TUN田中聖について良いイメージを持っていたわけではなかったのですが、ボランタリズムに関する考え方としてはほぼ同意見を持っており、共感できる部分も大いにありました。

 悪の分類 “根本的な悪”と”不本意的な悪”

しかし闇雲に行動すればいいというわけではありません。

ここで先ほど善という行為を詳しく見たように、悪について詳しく見てみたいと思います。

悪と言っても色々なものがあると思いますが、今回は悪を”根本的な悪”である行為と”不本意的に悪”となった行為の2つに分けたいと思います。

根本的な悪とは、計画された悪意のある行為とし、社会や個人に負の影響を与えるものとします。

一方の不本意的な悪とは、元々は悪となるような思惑はなかったものの結果的に社会や個人に負の影響を与えるものとしましょう。

気をつけなければならないのが不本意的な悪の存在です。

善行は思わぬ不注意や無知により悪の一種となってしまうのです。

例えば熊本の地震に絡めて例を挙げると、以下のような善行と思われるようなことも実際の当事者にとっては”不本意にも”迷惑となってしまうということが地震後に明らかとなってきました。

熊本地震:ボランティア・物資、焦らないで – 毎日新聞

「千羽鶴・古着・生鮮食品は要りません」 被災地が困る「ありがた迷惑」な物とは

善悪の判断は個人によって大きく異なります。

しかし繰り返すようですが、本記事内では善悪の判断を行動の結果が社会的にポジティブな影響を与えたかどうかに重点を置いて考えています。

行為の精神性を無視することは時に愚かなことかもしれませんが、ボランティア、人助け、募金等の行為も社会的な貢献度という観点で見れば時に不本意にも悪となってしまうこともあるのです。

またある視点から見れば善となる行為も、見方を変えれば悪であるという行為も存在します。

例えば国際支援の例で言えば、しばしばダムの建設プロジェクトでそのような状況が見られるように思います。

ある途上国で増加する人口に対しエネルギー不足が懸念されるため、JICAや世界銀行の協力のもと新たに水力発電所、つまりダムを建設することが計画されたとします。

ポジティブな面としては、

・経済的余裕のない途上国がエネルギー問題を解決できる

・今後の産業の発展に寄与する可能性がある

・確保できる飲み水が増える

といった側面が挙げられます。

これらの影響が具現化するならば、この支援は善と呼べるでしょう。

しかしダムの建設には

・建設予定地周辺の住人を移住させる必要がある

・環境破壊の可能性がある

などの不都合も存在します。

仮に住民の立ち退きが必要となった際、このダムの建設はその住民らにとって悪ともなり得ます。

(ちなみにこれらのダムの例は、日本も関わりがあるインドのナルマダダム、インドネシアのコトパンジャンダムの事例をイメージしています。あまり書くとODA批判のような記事になってしまうので、興味のある人は調べてみてください。)

このように、善悪の判定は視点によっても変化するということが言えます。

ここまで偽善を肯定的に捉えてきましたが、その偽善が不本意にも悪となってしまってはフォローのしようがありません。

私たちの行動が社会や他の個人に悪影響をなすことは避けなければなりません。

そのためにも自分の行動に責任を持つことは当たり前ですが、より確かなものとするためには十分な知識・経験が必要となってきます。

また熊本地震での教訓を生かすならば、その行動が影響を与える地域や人々や境遇を考えられる想像力を有し、当事者意識を持つことも重要となってくるのではないでしょうか。

そこにいるならどう感じるか、実際の現場ではどのように捉えられるか、想いを馳せるとでもいうべきでしょうか。

ここまで述べてきたことは協力隊の活動にも通じています。
やることは偽善と呼ばれてもいいと思っています。

自己のことを考えながらの活動でも活動対象に何らかのポジティブな影響を与えることは可能です。しかしそれが活動地域に悪影響を及ぼすものであってはなりません。不本意なこととは言え、結果的にそれは悪となり得ます。

特に協力隊は外部からやって来た者であるため、活動対象の境遇を理解することに時間を要します。それでいて2年以内に成果を求められるため行動が浅はかなものとなる可能性もなきにしもあらずと言えます。

腰が重くなってもいけませんが、大きな行動の前には十分な準備が必要ということを改めて肝に銘じたいと思います。

 この記事のまとめ!

「ボランティアとは偽善であるが、偽善は悪ではない」

①偽善は悪ではなく善の一部である

→偽善は自己の幸福の獲得と社会的貢献性のバランスが取れている

    ∴ 偽善は”完全な善”より実現可能性・持続可能性が高い

②偽善は見て見ぬ振り、もしくは無知や無関心による行動性の欠如に勝る行為である

→「やらない善より やる偽善」の考え方

→時として不本意にも善は悪となることに注意しなくてはならない

    ∴ 善となる行動には知識・経験、想像力(当事者意識)が求められる

(こんな長くて、しかも一体誰が得をするのかというような内容の記事を最後まで読んでいただきありがとうございます!)

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