鶏を捌いて感じたこと- 命をいただくということと飽食の時代

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青年海外協力隊員としてマラウイに来てから早くも5ヶ月、こちらの環境に慣れてきつつあるものの、着任当初は不便に思うことが多かったのも事実です。水や電気が急に使えなくなったり、蚊が多すぎて寝られなかったり、苦労を必要とする場面も少なくありませんでした。その苦労の中の1つに“鶏肉の入手が困難である”ということも挙げることができます。

アフリカにおける肉の販売

鶏肉以外でもそうですが、アフリカの多くの途上国では日本のように手軽に新鮮な肉を手に入れられるわけではありません。多くの場合、屋外に生肉を置き、量り売りで肉を販売しています。もちろんアフリカの気候のもと生肉をそのまま置いてあるので、ハエが何十匹と肉に集り、午後には肉が酸化し変色してしまっている様子も確認できます。

その様子を同期隊員のタケダノリヒロ氏(ルワンダ・コミュニティ開発)が自身のサイト内で紹介していたので、興味のある方は是非ご覧ください。

【閲覧注意】アフリカで肉を買う怖さを君達はまだ知らない

日本での精肉店のイメージで訪れるとそのギャップに驚くことになると思います。ただルワンダはサブサハラアフリカ(サハラ砂漠以南のアフリカ地域)の中ではかなり発展した国であるため、店内もある程度の清潔感が保たれているようにも見えます。私の経験からするとエチオピア、マラウイくらいの地方部だとそもそも“店”というものを構えておらず、道端に屋台を組んでその上で肉を解体して売っているような状態です。

ただ牛・豚・ヤギ肉に関しては「肉が販売されている」という点で、慣れてしまえばそれらの肉はすぐに手に入れることができます。私の場合、ハエが集る前の朝一番の新鮮な豚肉を毎週1kgずつ買っています。

しかし鶏肉を手に入れる際は別です。

鶏の捌き方

(※ 血を見るのが苦手な方は閲覧を控えてください)

私の任地では鶏肉は販売されていません。販売されているのは生きた鶏だけです。つまり自分で生きた鶏を捌き、肉を手に入れることとなります。つい最近ようやく鶏を捌く勇気が付いたので、生きた鶏を購入し解体しました。マラウイ人から捌き方を教えてもらったので、その方法をここに記してみようと思います。

一匹1500クワチャ(2ドル)なので、200円と少しくらいで1羽の鳥を買うことができます。見ていると情が湧いてしまう気がするので、あまり見ないようにして処理に取り掛かります。

お湯を沸かす

最初にすることは“お湯を沸かすこと”です。一度沸騰させて、しばらく置いておきます。

首を切る

普通ならここで血抜きのために吊るすような気もするのですが、マラウイ人に教えてもらった方法は、まず“生きたまま首を切る”というシンプルな方法でした。暴れまわる鶏を押さえつけ、首を切断します。

(首から上も食べることができるのでもちろん残しておく)

お湯に浸しながら羽を取り除く

次に“羽を抜き取る”作業が必要となります。ここで先程のお湯を使います。熱湯とまではいかなくとも温かいお湯に鶏を浸すことにより、格段に羽が抜きやすくなります。

しかし慣れていないとここでかなりの時間を要します。最初にやった時は本当に日が暮れました。

(日が暮れ、匂いに誘われ犬が周りをうろちょろ)

解体+内臓(胆嚢、小腸等)の除去

脚、手羽を関節から切り落とし、その後胆嚢、小腸等の内臓を取り除きます。

未だに私は内臓の処理が苦手で、マラウイ人に手伝ってもらいながらやっています。

(どこがどの内臓なのかわからない)

一通りそれなりの大きさに切り分けられたら終了です。

切っている最中にハエが50匹位飛び交っていたたり、手もそこまで清潔じゃなかったりしたので、一度すべての部位を茹でることにしました。

この日はそのいくつかを使い親子丼を作りました。

命をいただくということ

ありがちな感想かもしれませんが、「私たちは他の生物の命の上に生きている」ということを実感することができました。私は祖父が農業を営んでいたということもあり、食べ物を粗末にしないという感覚は人一倍持っているつもりでした。しかしながら今回の経験により更にその感覚が磨かれたように思います。

食べ残しをするべきではない、ということは色々な方面から論ずることができると思いますが、今私の中でその感覚を最も支えているのは『倫理的な観点』です。まったくもって論理的な意見とは言えません。ただ『感情』としてそのようにするべきではないと思っています。

「お金は払っているのだから、別に食材をどうしようかは勝手だ」と考えることもできるでしょう。しかしそれではさっき殺した鶏に申し訳が立たないような気がしてなりません。また鶏肉の処理に費やした時間や労力を考えると、捨てるなんてとんでもないと感じずにはいられません。仮に肉の処理を他人がしていてくれたのであれば、その人に顔向けできないような気分にもなりそうです。

現代の日本において、“自分で動物の命を奪い、食する”という経験をしたことがある方はどのくらいの割合でいるのでしょうか。牛や鶏の屠殺現場を見たことがある人はどのくらいいるのでしょうか。おそらくその数はそう多くはないはずです。なぜならそのシーンが日常になくとも、日本では新鮮な食材がどこでも手に入るからです。その食材となる動物たちに対する敬意を払うために、他人に「心を込めて、食べる前に“いただきます”と言え!」というつもりは私にはありません。しかしながら個々人の経験からそう言った方がいいだろう、これも1つの美徳なのだろう、と感じるのであれば“いただきます”という感謝の念があってもいいのではないかと思っています。

また、上記のような感情があれば食べ残しが減るのは確かだと思います。食べ残しが減ることは経済的なロスを減らすことにもつながっていると思いますし、私の祖父のように食べ物を生産する立場の者にとっても“感情的”に気持ちがいいのではないかと思います。(その生産者が同じだけの収入を得ていたとしても、食べ残しがない方が嬉しいに決まっている。)

先進国の飽食時代に対する提案

今日本を含め多くの先進国では、食料の大量廃棄が1つの問題になっているように感じます。そんな中、フランスでは以下のような法案が可決されました。

フランス:売れ残り食料、廃棄禁止…大型スーパー – 毎日新聞

もちろんこの法案の実施はかなり劇的なものであると思いますし、食料廃棄に対し罰金も設定されていることから企業側の多大な努力が問われる内容でもあることもたしかです。フランスの経済界から飽食に対する対策が為されている今日、日本の教育界では『食育』という名の対策が為されているように思います。

ここで、誰に対してなのかはさておき提案があるのですが、日本の教育現場の中で生きた家畜の解体(たしか法律的に家禽類の解体はOK、大勢にふるまうのはNG)を食育実習として行う、もしくは見学するというのはいかがでしょうか。

先進国のように経済が発展し、家畜等の生産者と消費者の距離がある体系の中に暮らす者ほど、その実際の生産場面を見る機会は減るはずです。そしてその場面を見ること、あるいは体験することは効果的な食育に繋がるのではないかと考えました。

先程も述べたように、私が個人的に食べ物を粗末に扱わないのは経済的なロスを減らすことが1番の理由ではなく『倫理的』にそれが良くないこと、美しくないことなのではないかと思っているからです。そしてそれはこれまでの食に関連する経験(今回の鶏を捌くという経験も含めたもの)の積み重ねにより形成されたものだと思います。

「食べ物は残さない方が経済的にお得だよ」と教えることは、日本のように経済的に豊かな国においては限界があるかもしれません。私が鶏を調理して感じたように、感情に訴えかけることの方が、特に倫理観を発達させつつある時期の子どもたちにとっては真に響くものとなるのではないのでしょうか。個人的には飽食の時代に対しそれなりの歯止めとなるのではないかと考えています。

こういった思い切ったことはなかなか公教育の中ではできないことではあると思いますが、食料の生産現場と人々との距離が離れつつある日本においては、その現場で何が起こっているかを知ることはとても大切なことなのであるはずです。少なくとも『食』という人が生きる上で必要不可欠な存在について知ることは、学校教育の中にもっと直接的に盛り込まれてもいいと思いました。

この記事のまとめ!

・鶏を解体することにより『食』について考える良いきっかけとなった

・経済的な動機よりも倫理的な動機がある方が食べ残しを減らす要因となるのではないか

・飽食の時代にこそ食べ物のことについて考える「食育」に力をいれるべきだ

         →劇的な内容であるかもしれないが“鶏の解体”の体験or 見学は効果的であると考える

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